小谷さん・西垣さん、2つの公務災害認定裁判闘争をめぐる情勢と労働組合としての課題

(京都府立高教組副委員長 小宮山 繁)

(1)全国ではじめて養護学校教員の頸肩腕障害の公務災害認定を争っている小谷さん(京都府立城陽養護学校教員)の裁判は、裁判提訴から4年が経過し、3月26日結審し判決が7月9日に下されることになった。また、養護学校教員の背腰痛の公務災害認定を争っている西垣さん(元京都府立丹波養護学校教員)の裁判は、これまで12回の公判で証人調べを終えた段階で、被告である「地方公務員災害補償基金京都府支部(支部長荒巻禎一知事)」が、「医学的意見書」なるものを3月10日に提出してきた。

政府・財界は、自らの「21世紀戦略」に不可欠な「行革リストラ・教育改革」政策の推進の「妨害」となる労働災害・公務災害認定を極力押え込み、労働条件悪化とその結果としての過労死や健康破壊を「労働者の自己責任」とし、「労働者の使い捨て社会実現」のために、「労働災害隠し」を徹底してすすめてきた。
一方この間、鈴木最高裁判決や大阪向井裁判・山本裁判をはじめ各種裁判の判決が、保母や養護学校教員などの腰痛・頸肩腕障害について、保育や介護の労働負担そのものに、それらの病気を発症させる要因があることを認め、労働者救済のための完全補償と職業病発生予防のための労働条件改善の展望が大きく広がっている。
それゆえ、政府・財界は、強い危機感をもち、全国的にも、京都でも小谷裁判で岩破氏西垣裁判で松下氏、という医師を用いて「職業病否定・本人責任」論を「医学的な装い」で展開し、一段と対決する姿勢を強めている。岩破氏も松下氏も、小谷さん西垣さん本人を直接診察したこともなく、具体的な労働現場を一度も見ずに、整形外科医の「権威」のみで「意見」を述べること自体、その見識を問われるものである。またこれは、障害児教育現場を知らないことを承知で「医学論争」に争点をそらすことを狙った基金のこそくな「常套手段」である。
私たちは、基金が本来の救済機関としての役割を自ら放棄し、労働者のいのちと健康を切り捨てようとするこのような所業に強い怒りを禁じ得ない。このような基金の姿勢に対する社会的な批判を広げるための運動をすすめなければならない。

(2)小谷さんの頸肩腕障害も、西垣さんの腰痛も、28年間続いた民主府政が、自民党府政となり、政府・財界の意を受けて「京都の民主教育・障害児教育攻撃」と「安上りの教育政策」を開始した1970年代末から1980年代の前半の時期に発症した。2人の「公務災害」は、まさにその攻撃の結果であり、2人はその犠牲者である。

小谷さんの発症当時の林田自民党府政と反動府教委は、「障害の重い子どもたちにこも手厚い教育を」という府民の願いに反し、南京都病院重症心身障害児「しらうめ」病棟の子どもたちの教育を、1979年から安上りの「訪問教育」として措置した。教職員の配置も少なく、教室さえありませんでした。そのため、いろんな子どもたちに対してメニューを変えて指導しなければならない(その準備やまとめも)、教材や車椅子の子どもたちを運んで吹き曝しの百メーター以上の長い斜面を日常的に上り下りしなければならない等、小谷さんには重症心身障害児の介護と教育のための労働負担に加え、特別な労働条件の悪さがあった。
西垣さんが携わった重症心身障害児施設「花の木学園」(当時)の子どもたちの教育はそれまでの亀岡小学校と亀岡中学校の施設内学級から、1980年に丹波養護学校の亀岡分校となったが、高等部生は丹波養護学校の本校までの通学を余儀なくされた。西垣さんは、花の木学園の高等部生が本校に通学していた5年間のうちの4年間、高等部の重度重複クラスの責任者を勤め、エレベーターもなくスロープを2台の車椅子の子どもたちを支えて上り下りするなどの劣悪な労働条件のもとで、の介護労働を率先して行っていた。
この間、自民党府政・府教委は「高校三原則つぶし」「学校の主人公は校長論」等に典型的に示される「競争と管理の教育」に変質させるために、教職員とその労働組合に対して、組合活動の妨害、交渉の拒否・制限、人事や研修などでの差別、権利への攻撃、「処分」乱発による脅し、上位下達の学校運営など、異常な「教育改革」攻撃を進めてきた。
そのなかで、京都の障害児教育の教育条件整備は、徹底して安上りにサボタージュされ教育予算は削減され、施設設備の面でも、教職員配置の面でも近畿・全国で最低という「恥ずべき位置」となっている。
京都の教育破壊と比例して教職員の健康破壊が深刻化・普遍化し、1987年度から1997年度の11年間で、146名もの京都の現職教職員が死亡した。小谷さんは1985年に、西垣さんは1986年に公務災害の申請をしたが、まさにこの事態の警鐘でもあった。
この間、京都府及び府教委は、教職員のいのちと健康にかかわる切実な要求に対して誠実にこたえようとしなかっただけでなく、府立学校における労働基準監督機関である府人事委員会の「事業場立入調査」による労働基準法違反・労働安全衛生法違反の指摘に対してさえ、まともな対策を講じてこなかった。
小谷さんの勤務校である城陽養護学校への立入調査(1996年10月実施)では4項目の法違反が、西垣さんが被災した職場である丹波養護学校への立入調査(1997年11月実施)では5項目の法違反が、指摘されている。京都の学校現場は今日においても、このような法違反の状態すら解決されず、頸肩腕障害・腰痛等の発症と公務災害申請が相次ぎ(この7年間の組合本部の把握事案数だけでも17件)、そのうち8件が公務上と認定されてきているが、今日以上に教育条件・労働条件が劣悪だった2人が被災した当時の状況と事実をまともにみれば、その発症と労働負担との関連は、一層明らかである。
私たちは、同じ京都の公務災害認定裁判闘争である内藤裁判(過労死・京都市教組)、荻野裁判(過労死・宇治久世教組)、重田裁判(頸肩腕障害・宇治市職労)をはじめ、すべての労働者・国民の「いのちと健康を守るたたかい」と連帯し、教職員の健康破壊の事実とその原因を明らかにし、反動的な教育政策・教育行政のあり方と劣悪な学校現場の教育条件・労働条件を、社会的に批判し改善させる運動を強化しなければならない。
私たち京都府立高教組は、小谷さん・西垣さんの2つの裁判闘争が一つの契機ともなって、労働組合として教職員のいのちと健康を守るたたかいをすすめるために、「労働安全衛生対策委員会」を設置し、この間不十分ながら取り組んできた。それは、教職員の死亡やケガ、様々な疾病と具体的な労働条件の関係を明らかにし、予防と補償の両面で事業者責任を追及し、学校を教職員が人間らしく働ける職場に改善することをめざしてきた。
2つの裁判闘争が最終盤を迎え、一つ一つのたたかいで確実に勝利するための具体的な運動を進めると同時に、教職員の健康破壊を生まない職場をつくることが、子どもたちに丁寧な教育をし、人間としての権利を守ることのできる学校をつくることに直結するという世論を広げるために、父母や地域の労働者、住民の方々との共同をすすめてく必要がある。その取り組みが広がっていく時、この2つの裁判闘争に勝利したと言える。(以上)

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