小谷健康裁判京都地裁判決(1999年7月9日)

平成7年(行ウ)第11号 公務外認定処分取消請求事件

判    決

京都府城陽市富野森山1―52
原       告  小谷美世子
右訴訟代理人弁護士  村山晃
同          佐藤克昭
同          岩橋多恵

京都市上京区下立売通新町西入藪ノ内町
被       告  地方公務員災害補償基金
京都府支部長
荒巻禎一
右訴訟代理人弁護士  石津廣司

主        文

1 被告が、原告に対して地方公務員災害補償法に基づき平成3年8月14日付けした公務外認定処分を取り消す。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一 請求

主文と同旨

第二 事案の概要

一 本件は、養護学校の教員である原告が、頸肩腕症候群及び背痛症に罹患したのは公務上の災害に当たるとして、被告のした公務外認定処分の取消を求める事実である。

二 争いのない事実等

1 原告(昭和25年は8月18日生)は、昭和48年4月に京都府に教員として採用され、昭和55年3月まで府立与謝の海養護学校桃山分校に勤務し、小学部、高等部を担当した(なお、同分校は、府立桃山養護学校に組織改編するとともに名称を変更した。)

昭和55年4月からは、府立桃山養護学校しらうめ訪問教育部(以下「本件職場」という。)に勤務し、国立療養所京都病院のしらうめ病棟に入院している重症心身障害児の訪問教育を担当した(なお、同校は、昭和57年4月に府立南山城養護学校しらうめ訪問教育部に、昭和58年4月府立南山城養護学校城陽分校に、昭和61年4月に府立城陽養護学校にそれぞれ組織改編するとともに名称を変更した。)。

2(一) 原告は、昭和56年の定期健康診断で「これ以上肩こりや頭痛が強くなるようであれば要加療」との指示を受け、昭和58年6月10日に岡本外科・整形外科医院(以下「岡本医院」という。)において、頸肩腕症候群と診断され、昭和59年1月13日には京都第一赤十字病院で起立性低血圧症、緊張性頭痛症と診断された。その後、原告は、同年2月23日に上京病院で姫野純也医師(以下「姫野医師」という。)の診察を受け、頸肩腕症候群(頸肩腕障害)、背痛症(以下、これらを「本件疾病」という。)と診断された。

(二) 原告は、同年4月から昭和61年3月まで休職した。

3(一) 原告は、昭和60年5月7日に、被告に対し、本件疾病は公務上の災害に当たるとして、地方公務員災害補償法45条に基づき公務災害認定を請求した。しかし、被告は平成3年8月14日付けで公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をし、同年9月4日に原告に通知した。

(二) 原告は本件処分を不服として、同年11月1日に地方公務員災害補償基金京都府支部審査会に対し審査請求をしたが、同審査会は平成6年6月1日付けでこれを棄却する旨の裁決をした。

(三) さらに、原告は、同年7月1日に地方公務員災害補償基金審査会に対し再審査請求をしたが、同審査会は3か月以上経過しても裁決をしなかったため、平成7年4月12日に本訴を提起した。なお、同審査会は、同年9月6日に再審査請求を棄却する旨の裁決をした(乙3)。

三 争点

1 原告は本件疾病に罹患したか。

2 本件疾病は公務上の災害に当たるか。

四 争点についての原告の主張

本件疾病は、次のとおり、原告が従事してきた重症心身障害児教育の業務に起因するもので、公務上の災害である。したがって、これを認めなかった本件処分は、違法であり、取消されるべきである。

1 重症心身障害児教育業務と頸肩腕症候群

(一) 労働省労働基準局長の通達等による新認定基準
平成9年1月に、頸肩腕症候群等に関する専門検討会が発表した「頸肩腕症候群等に関する検討結果報告書」は、広範な上肢作業に伴う障害に対する認定基準の明確化を図る必要を指摘し、上肢作業に伴う障害の対象としては、「上肢等に過度の負担のかかる作業者に見られる、後頭部、頸部、肩甲帯、上腕、前腕、手及び指における運動器の障害」とすることが適当であるとし、「上肢作業者が上肢を過度に使用した結果発症したと判断される場合のように、労働要因が主たる要因となってこれらの運動器の障害を発症し又は症状悪化を招いたことが明白である場合には、業務上疾病として適切な労災補償がなされるべき」であるとしている。これを受け、労働省は、同年2月3日、上肢障害に関する労災の認定基準を従前のものから大幅に見直した「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」と題する労働基準局長通達(基発第65号)を出し、地方公務員災害補償基金も、同年4月1日、「上肢業務に基づく疾病の取扱いについて(通知)」及び「『上肢業務に基づく疾病の取扱いについて』の実施について(通知)」(地基補第103号、104号)を出して、右趣旨に沿った認定基準の改正を行った。労働省労働基準局補償課長が、右改正後の認定基準の運用の統一を図るために同年2月3日に出した事務連絡「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準の運用上の留意点について」では、対象業務のうち、「上肢等の特定の部位に負担のかかる状態で行う作業」として、「介護作業」が明記されている。

(二) 重症心身障害児教育の特徴
重症心身障害児は、重度の障害を持つ児童・生徒(以下単に「児童」という。)で、ほとんどが寝たきりであり、食事、排泄、移動等にほぼ全面介助を必要とする。また、脳性麻痺による筋緊張が強いことが多く、変形を防止し、身体機能を向上・改善させるために、機能訓練とそれに準じた教育上の取組みが必要である。さらに、重い精神発達障害、てんかん、呼吸器系の障害、嚥下困難、視覚障害、聴覚障害、内臓の疾病等の他の障害を合併していることも多く、常に生命の危険にさらされている。そのため、重症心身障害児の介助業務においては、児童の姿勢に合わせて、肩、腕、腰などに負担をかける姿勢をとることを常に要求され、過度の肉体的、精神的緊張を強いられる。すなわち、重症心身障害児教育の業務は、上肢及び頸部に過度の負担のかかる状態で行う作業であり、右認定基準に該当する。

2 原告が本件職場で担当した業務及び症状の推移

(一)原告の本件職場における業務
原告は、昭和55年4月から昭和59年3月まで、本件職場で、最重度の病気と障害を併せもった児童を担当しており、そのほとんどは全面介助が必要であった。原告の本件職場における業務の内容は次のとおりである。
(1) 昭和55年4月から昭和56年3月まで(「昭和55年度」という。以下同じ。)(児童61名・教員12名)
原告は、3D(担任)、3C、2Dグループの児童(平均体重15・7キログラム)を担当した。校務分掌では、3病棟担当で、研究部、「うた・リズム」を担当した。
(2) 昭和56年度(児童67名・教員14名)
原告は、3D(担任)、3C2、3C1、3B、3Aグループの児童(平均体重15・4キログラム)を担当した。校務分掌では、3病棟担当で、研究部長、「かく・つくる」を担当した。同年度には、年間行事に学習発表会、卒業式が加わり、授業時間数も増えた。
(3)昭和57年度(児童71名・教員16名)
原告は、3C3(担任)、3C1,2D、2B2グループの児童(平均体重14・6キログラム)を担当した。校務分掌では、3病棟担当で、研究部長、「ふれる・えがく・つくる」担当、教育実習生担当、病弱養護学校準備委員、近病連大会実行委員を務めた。同年度には、年間行事夏季一泊学習会が加わり、他校の教員らとの研究交流の会議が増えた。
(4) 昭和58年度(児童72名・教員23名)
原告は、3C3(担任)、2A2、1Dグループの児童(平均体重20・7キログラム、最高42・1キログラム)を担当した。原告が主に担当していた3C3グループの4名(H・A、A・T、T・S、T・K)、2A2グループのT・F、1Dグループの2名(N・K、N・S)の心身障害の状態等は、別紙①のとおりである。これらの児童は、いずれも複数の障害を有し、大部分がほとんど寝たきりの状態で、食事、排泄、移動等に全面的な介助が必要であった。校務分掌では、3病棟担当・代表で、「うた・リズム」担当、教育実習生担当、近病連大会実行委員、運動会実行委員、教務部、行事打ち合わせ担当、重心運営委員、実践報告会委員を務めた。同年度には、集団学習の1回あたりの時間が増え、従来の午前1回・午後2回から、午前1回・午後1回になった。グループ内での養護・訓練指導の取組みも開始された。また、「マイナス指導体制への試行」として、教員1名に児童2名という状態も生じ、児童の抱きあげ・抱きおろしの回数やその他の介助の回数が増えていった。4月当初には、教員4名での担当になっていたグループにおいて、1名が切迫流産で休んだため、介助等の負担が増大した。更に、5月には、病棟から約140メートル離れた高台に新教室4室が増設されたことにより、同教室まで120ないし150メートルの坂道を児童をストレチャーやバギー等に乗せて移動したり、教材等を運搬する作業が増えた。
以上のとおり、原告は、昭和55年4月から昭和59年3月まで、
本件職場において、首、肩、腰、腕に集中的に過大な負担のかかる業務に継続して従事しており、しかもその業務量は年々増大し、慢性疲労が蓄積していた。

(二) 原告の昭和58年度の一日の業務内容
昭和58年度の原告の1日の主な業務は次のとおりである。
(1) 授業の打ち合わせ〔8時15分から8時30分〕
(2) 授業準備、個別指導、朝の申し継ぎ〔8時30分から9時30分〕
授業準備として、教材庫から教室まで重い教材を運ぶ。個別指導として、児童4名を順次、抱っこして、揺さぶりながら歌いかけるなどの機能訓練的な働きかけをし、おむつ替えをする。その後、申し継ぎの報告を聞いて、授業の打ち合わせをする。
(3) 午前の集団授業〔9時30分から11時〕
病棟で児童のおむつ替え・着替えを行う。その後、児童をバギーに乗せ、教室までの坂を押して移動する。授業では、児童を抱きかかえてあいさつ、水分補給をしたあと、玄米遊び等を行う。授業終了の際、児童のおむつ替え・着替えを行い、再びバギーに乗せて病棟へ移動する。
(4) 食事指導〔11時から11時45分〕
ベットに寝ている児童を抱き起こし、床で抱きかかえた状態で、児童の首もしくは体を左腕で支えながら、右腕を中空に保持して、スプーンを児童の口に持っていって食事をさせる。
(5) 午前の授業の後片付け〔11時45分から12時5分〕
午前中の玄米などの重量物を教室から教材庫へ運び、掃除をする。
(6) 原告の食事〔12時5分から〕
15分くらいで昼食を済ませる。
(7) 授業反省会〔12時30分から12時45分〕
(8) 午後の集団授業の打ち合わせ〔12時45分から13時〕
(9) 午後の授業準備〔13時から13時15分〕
午後の授業に必要な教材を教材庫から教室に運ぶ。
(10) 児童のおむつ替え・着替え、教室への移動〔13時15分から13時30分〕
児童のおむつを替え、着替えさせた後、バギーに移して教室までの坂を押して移動する。
(11) 午後の集団授業〔13時30分から15時15分〕
児童を抱きかかえてあいさつ、おやつ介助をしたあと、トランポリン等を行う。その後、再びバギーに乗せて病棟に移動する。
(12) 児童のおむつ替え・着替え〔15時から15時15分〕
病棟で、児童をバギーからベットに抱いて移動させ、おむつ替え・着替えを行う。
(13) 授業の後かたづけ〔15時15分から15時30分〕
(14) 授業反省会〔15時30分から15時40分〕
(15) 各種会議〔15時40分から17時過ぎまで〕
教育内容の検討、教材の研究会などの各種会議に参加する。会議が終わるのは17時をはるかに過ぎてからであり、職場を離れるのは17時50分ころであった。
以上のとおり、原告の業務は常に児童の介護労働を伴うものであり、頸肩腕症候群を引き起こすのに十分な負荷を有していた。

(三) 原告の症状の推移
(1) 原告は、本件職場で重症心身障害児教育に従事するまでは、昭和48年に児童に飛びつかれて腰痛を発症したことを除けば、腰、頸、肩、腕に異常はなかった。
(2) しかし、原告は、夏休みが明けて最も多忙な時期である昭和55年10月ころから、肩こり、背部痛等を感じるようになり、同月31日の定期健康診断で初めて慢性的な肩こり、腰痛を訴えた。
(3) 原告は、昭和56年度においては、5月ころから頭痛、肩こりを感じ、同月19日に整形外科で受診し、7月まで通院した。その後、夏期休業により症状は緩和し、通院を打ち切ったが、2学期の開始により再発し、同年10月16日の定期健康診断で、腰痛、肩こりを訴え、「様子観察」とされた。しかし、冬休み、春休みに入ると症
状は緩和した。
(4) 原告は、昭和57年度においては、4月から腰痛、肩こりを感じ、2学期には午後の授業の後には体を引きずるような状態になった。
そして、秋の定期健康診断で「筋筋膜性腰痛症」と診断され、肩、腕の痛みのため、家事にも支障が生じた。
(5) 昭和58年度に入り、原告は、4月初めから腰、肩の痺れを感じていたが、5月ころ、体重42・1キログラムの児童を教員2名で抱いて車椅子に乗せようとした際、右上腕部に痛みを覚えた。その後、右腕のだるさ、頸部から肩にかけての肩こり様症状、右上腕部にかけての疼痛があり、6月に岡本医院で頸腕症候群と診断された。
6月、7月と痛みは増強したが、夏休みに入り、痛みは多少軽減した。しかし、2学期後半から再び背、肩、首、後頭部痛が強まり、冬休みに入っても症状は軽減しなかった。昭和59年1月には京都第一赤十字病院で受診し、起立性低血圧症、緊張性頭痛症の病名で通院加療を続けた。同年2月ころ、体重22キログラムの児童を抱
いてベットに移す途中に急に反り返ったために抱きなおした際、右背部から肩、首にかけて痛みが走り、それ以後、背、肩、首、後頭部の痛み、しびれがひどくなった。このため、原告は、2月23日上京病院で受診したところ、姫野医師から頸肩腕症候群(頸肩腕障害)、背痛症と診断されたが、その後も仕事を休むことはできなかった。
(6) 原告は、同年4月から休職したが、その後は症状が次第に軽快し、職場復帰訓練をした後、昭和61年4月に職場に復帰した。
以上のとおり、原告の従事してきた業務の厳しさと、原告の本件疾病の症状の経緯は符合している。

3 原告の業務の過重性

(一) 草創期による過重性
昭和54年に学校教育法に基づく養護学校の義務制が実施され、従来、学校教育の対象となっていなかった重症心身障害児に対する学校教育が開始された。原告が本件職場に配置された昭和55年度は、その2年目であり、いわば重症心身障害児教育の草創期であった。そのため、教員は無定量の職務を余儀なくされたうえ、教育内容を自ら考案し実践する過程で、肉体的、精神的緊張を強いられた。また、教員の1週間の動きは複雑であり、さらに、年度により大きく変化した。
原告はかかる状況の下で、昭和55年4月から昭和59年3月まで重症心身障害児教育を担当したのであり、その業務の過重性は明らかである。

(二) 過密な労働実態の常態化による過重性
(1) 休息、休憩時間
制度上の勤務時間の割り振りは、8時15分から17時まで(月曜日から金曜日)、8時15分から12時まで(土曜日)で、そのうち、休息時間は12時から12時15分までと16時45分から17時まで、休憩時間は16時から16時45分までであった。しかし、1日を通して休憩、休息時間をとることはほとんど不可能で、昼休みも食事をするのがやっとの状態であった。
(2) 会議
授業の前後や勤務時間終了後には、教育内容の検討(方針の検討、教材作り)、合同行事のための打ち合わせ、父母や地域との連繋に関する会議等の各種会議が頻繁に行われ、休憩時間にくい込んだうえ、17時を過ぎることもあり、多数回、長時間かつ高度の緊張が要求された。昭和58年度には、ほとんど毎日会議が行われた。
(3) 超過勤務、持ち帰りの仕事
教材研究、教材作り、子供の記録、指導案作成、実践のまとめ、評価、生活指導などのレポート作成の仕事は、正規の勤務時間内に行うことが不可能で、自宅に持ち帰って行わざるを得ず、通常で毎日1時間半から2時間、学期末や年度末はそれ以上の持ち帰り残業があった。

(三) 教員数の不足による過重性
本件職場の教員数は、昭和55年度は児童61名に対し12名、昭和56年度は児童67名に14名、昭和57年度は児童71名に対し16名、昭和58年度は児童72名に対し23名であった。最近の教員数は、平成4年度は児童25名に対し18名、平成7年度は児童21名に対し22名、平成8年度は児童17名に対し17名であり、これと比べて、当時の教員数は大幅に不足していた。殊に、本件職場は、発達障害の程度が高い児童を対象としていたにもかかわらず、他の障害児学校と比しても教員数が少なかった。このため、原告が本件疾病を発症した時期には、本件職場で勤務する多くの教員が頸肩腕症候群や腰痛に罹患していた。

(四) 本件職場の環境の不備による過重性
本件職場には、次のような問題があり、これらが教員らに過大な負担を与えていた。
(1) 教室数が不足していたため交替で教室を使用しており、教室設備も不充分であった。そのため、学習活動に必要な大きな教材を、授業ごとに授業準備として自ら運び、片付けなければならなかった。
(2) 原告の発症当時、本件職場では、頸肩腕症候群に対する予防、発見、治療対策がとられていなかったため、重症になるまで事実上放置されていた。

(五) 原告独自の事情による過重性
原告は、一貫して、本件職場でも最度重症の児童の教育を担当してきた。また、担当している児童の死に直面した回数も多い。さらに、昭和58年度は3病棟の代表になり、教員の代表として病院との連・調整役を担当したため、人間関係から心労を感じることが多かった。

4 他の要因の不存在
原告には頸肩腕症候群や背痛症を発症する他の原因は存在しない。

5 治療経過について
原告の療養期間が6か月を超えたのは、症状が難治化していたためであり、このことで公務との因果関係が否定されることはない。頸肩腕症候群が難治化すれば、職場復帰に何年もかかることは常識の範囲内である。原告は、症状を訴えた後も働き続けていたのであるから、症状が悪化するのは当然のことである。休養後は、一定期間はかかったものの着実に回復しており、このことは本件疾病の公務起因性を示すものである。

五 争点についての被告の主張

原告が本件疾病に罹患したものとは認めがたい。
また、仮に右事実が認められるとしても、地方公務員災害補償法上の公務上の疾病と認められるためには、当該疾病が公務と相当因果関係にあるものでなければならず、当該疾病の発症について公務を含む複数の原因が競合する場合は公務が相対的に有力な発症原因でなければならないと解されるところ、原告の本件疾病は、原告の従事してきた重症心身障害児教育の業務を相対的に有力な原因とするものではないので、公務外の災害である。したがって、本件疾病を公務外の災害と本件処分は適法である。

1 頸肩腕症候群について

(一) 頸肩腕症候群は、広義には頸部から肩及び上肢にかけて、頸部痛、重感、肩こり、上腕から前腕にも及ぶ痛みや重感、手指のしびれ、脱力などの何らかの症状を呈するものに対して与えられる総括的名称であり、そのうち病態の明らかでないものが狭義の頸肩腕症候群である。

(二) ところで、、姫野医師は原告が頸肩腕症候群に罹患したと診断しているが、以下とおり鑑別診断が十分になされていないので、原告の疾病が頸肩腕症候群であると認めることはできない。
(1) 原告には、頸肩腕症候群に重要な他覚的所見である筋硬結が認められず、筋緊張が存したとされているに過ぎない。
(2) 原告の握力について、右29キログラム、左29・5キログラムで右に軽度低下を認めるとしているが、0・5キログラムの差は有意な差でなく、握力低下があるとはいえない。
(3) CRP(炎症反応検査)RA(慢性関節リウマチ検査)が陰性であったことからリウマチを否定しているがこれらの検査が陰性でも、リウマチが否定できるものではない。
(4) 原告の胸郭出口症候群を否定しているが、その鑑別診断に必要なルースの3分間テストを行っておらず、同疾病を否定することはできない。

(三) 原告の症状は、以下の疾患を原因とする可能性が高い。
(1) 自立神経失調症
原告は、昭和59年1月13日に京都第一赤十字病院で受診し、起立性低血圧症と診断されている。この際の原告の主訴は頭痛であったが頸肩腕症候群で頭痛が発現することはない。起立性低血圧があって、しかも頭痛を含む不定愁訴があるのは、典型的な自律神経失調症の症状である。自律神経失調症は、交感神経と副交感神経の不均衝のため起こるものであり、その原因は不明である。原告は、本件職場に勤務する以前から頭痛があり、昭和55年6月の時点で生じている眼性疲労もまた自律神経失調症の一症状であって、これらの症状が本件業務とは関係がない。
(2) 低血圧症
原告は昭和51年度の定期健康診断以降、一貫して最高血圧が110㎜Hg以下であり、100㎜Hg以下のこともあり、低血圧症の傾向を示している。低血圧症の定義は必ずしも統一されていないが、収縮期圧100から110㎜Hg、拡張期圧60から7㎜Hg以下とするのが一般的である。低血圧症の症状は様々であり、不定愁訴というべきものが多いが、頭痛、めまい、疲労感、不眠、肩こり、手指振せん等の精神神経症状が生じる。
(3) 頚椎不安定
原告の第2から第5頸椎間には、軽度ではあるが配列の乱れが認められており、昭和55年度には頸椎不安定と診断されている。頸椎不安定があると、項部痛、肩こり、背部痛が生じ、頭痛も一定の頻度で生じる。
(4) リウマチ
原告は昭和57年に林医院で受診し、慢性リウマチ性関節炎と診断されている。リウマチによって肩こり等の症状は生じるから、原告の症状はルウマチによるものと考えることもできる。

2 本件疾病及びその公務起因性

(一) 頸肩腕症候群について
仮に、原告の疾病が狭義の頸肩腕症候群であるとしても、頸肩腕症候群は、自覚症状を主としたものであること、個人的資質に起因するところが大きい疾患であることからすれば、その公務起因性の判定は慎重になされるべきである。前記の地方公務員災害補償基金が平成9年4月1日付けで発出した「上肢業務に基づく疾病の取扱いについて(通知)」及び「『上肢業務に基づく疾病の取り扱いについて』の実施について(通知)」によれば「上肢等に負担のかかる作業」、すなわち「上肢の反復動作の多い作業」、「上肢を上げた状態で行う作業」、頸部、肩の動きが少なく、姿勢が拘束される作業」、「上肢等の特定の部位に負担のかかる作業」を主とする業務に相当期間従事した後に発症した疾病は、一定の要件のもとで、公務上の疾病として取り扱うものとされている。しかしながら、原告の従事した重症心身障害児教育の業務の中には、中腰、前かがみの姿勢、手腕の屈伸等の動作を伴う作業もあるものの、児童の動きに対応して、身体の色々な部位を使う混合的・複合的作業であって、繰り返し作業や持続的に一定の姿勢・肢位保持を必要とするものではなく、右の「上肢等に負担のかかる作業」には該当しない。また、上肢等に負担のかかる作業に従事したとしても、頸肩腕症候群発症の危険性が生じるのは、1日6時間ないし7時間、1週間で連続6日ないし7日、右業務に従事するような場合に限られるところ、本件職場において教員が児童に直接関わる時間は、昭和58年度でも1日4時間25分程度である上、毎週水曜日と木曜日の午後には集団授業はなかったから、原告は、1日6時間ないし7時間、1週間で連続6日ないし7日、右業務に従事することはなかった。しかも、業務に従事した日数は年間192日程度であり、頸肩腕症候群発症の危険性はなかったから、公務起因性はない。この点に関し、前記の「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」は、「上肢に負担のかかる作業」として「上肢等の特定の部位に負担のかかる状態で行う作業」を、「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準の運用上の留意点について」は、上肢等の特定の部位に負担のかかる状態で行うう作業の例として、保育、看護、介護作業」をそれぞれ挙げているが、これらの作業と頸肩腕症候群との定型的因果関係を認めたものではない。しかも、重症心身障害児教育の業務は、限られた勤務時間のみ児童に関わるものであって、右の「保育、看護、介護作業」には当たらない。

(二) ところで、姫野医師は、原告の本件疾病は、頸部、肩、背、上肢の災害的損傷と労作そのものによる疲労と蓄積とが相まって発症したものであるとするが、右診断は、以下のとおり鑑別診断が十分になされていないので、これをもって原告の疾病の原因が本件業務にあるとすることはできない。
(1) 「災害的損傷」を原因そしているが、一過性の負荷で頸肩腕症候群が発症することはないし、仮に一過性の負荷で筋損傷が生じれば血液検査のデータに現れるにも関わらずその所見がない。その上、筋損傷が生じても2か月で治癒するから、原告のように症状が長期間存続することはあり得ない。
(2) 業務が原因であるとするのであれば、心理テスト、性格テストを行う必要があるのに、これらを行っていない。

3 原告が本件職場で担当した業務について

原告の担当した業務は、次のとおりであり、その内容、性格からみて、本件疾病を発症させる相対的に有力な原因となったものとはいえない。

(一) 昭和55年度から昭和58年度までの、本件職場の教員数、在籍児童数、日課、週学習時間、授業場所は別紙②のとおりである。また、原告の昭和55年度から昭和58年度までの1週間の担当授業の時間割は別紙③のとおりである。昭和58年度には、午前の授業が1時間から1時間20分に、午後の授業時間が1時間から2時間に、それぞれ長くなっているが、これは、児童への水分補給、移動等の授業準備を授業の一部に位置づけることにしたために過ぎず、これに伴い、授業が午前1回、午後2回から、午前1回、午後1回に変更されており、教室での授業時間の減少のみならず、授業準備の回数も減少し、教員の負担も大幅に軽減された。また、原告がマイナス指導体制で授業を担当するのは例外的な場合に限られていた。原告の同僚教員が切迫流産により病休に入った昭和58年4月6日から同年5月15日までの間は、全時間、応援の講師が担当した。

(二) 昭和58年度の原告の授業内容について
(1) 個別指導、朝の申し継ぎ
昭和58年度の個別指導では、揺さぶり、おむつ替えは行われなくなっていた。また、朝の申し継ぎは、各病棟ごとに教員1名がローテーションで参加することになっており、全教員が毎日参加するわけではなかった。
(2) 授業準備
教材等のうち、常時使用するもの、重いものは教室横の教材庫に収納していた。また、教材等の運搬が毎日必要だったわけではなく、必要な場合には、主に男性教員がこれにあたっていたし、台車で運搬していた。
(3) 教室・病棟間の移動
教室と病棟との間は、坂道となっているとはいえ、おおむねなだらかなものだった。また、教室・病棟間を、児童をバギーに乗せて移動するにあたっては、原則として教員1名が担当する児童は1名であって、バギーからベットへの移動については児童1名を複数の教員が担当することがあった。
(4) 集団授業
授業の主教材は日によってかわり、上肢作業が必要となるものばかりではなかった。午前の集団授業は、時間割では11時までとなっていたが、実際には10時50分までに終了しており、授業時間は実質45分程度だった。また、授業中の着替え、おしめ替えは、児童が汚したときのみに行うもので、毎日するものではない。
(5) 食事指導
食事指導は15分から50分、平均30分程度であり、、教員1名が食事指導に当たる回数は週3回であった。原告の場合、食事指導が11時20分ないし30分で終了しており、12時30分まで休むことができた。

4 原告の業務の過重性について

(一) 教員配置状況について
本件職場は昭和58年度には分校化し、体制も整備されていた。
昭和58年度の京都府立養護学校及び全国の公立養護学校の児童数、教員数は別紙④のとおりであり、児童は全ての授業時間に出席していたわけではないから、本件職場の授業(集団指導)における教員1名当たりの負担1・21名であって、他校及び全国平均に比較して過重ではなかった。本件職場における昭和58年から昭和60年までの教員の発病状況は別紙⑤のとおりである。昭和58年度には、本件職場には他に頸肩腕症候群に罹患して1週間以上病休を取得した教員はいなかったし、昭和59年度もいなかった。かかる発病状況から見て、本件職場の業務は頸肩腕症候群発症の危険性を有するものではない。

(二) 本件職場の環境について
原告の本件疾病の発病当時、既に腰痛検診は実施されていた。また、本件職場では、毎朝、腰痛予防の体操が実施されており、しかも病院に設置されていたことから医療関係者の指導も受けうる状況にあった。

(三) 勤務時間について
原告の休暇取得状況、勤務時間の状況は次のとおりであったから、本件職場の業務が一般的に頸肩腕症候群を発症させるほど過重であったとはいえない。
(1) 休暇取得状況
原告の昭和57年度、58年度の休暇等の取得状況は別紙⑥のとおりであり、原告が児童を指導した日数は、昭和57年度は186日、58年度は192日に過ぎない。原告は休暇を取りにくい状況にあったわけではないし、夏期休業期間中など、児童の介助業務に従事していない日も相当日数存在している。
(2) 会議
授業時間終了後、会議が設定されている日もあったが、毎日ではなかった。
(3) 超過勤務状況
記録上、昭和55年度から昭和58年度までの間に原告が時間外勤務を命じられたことはない。

(四) 原告独自の過重性について
原告の業務は、同僚教員と同程度の、養護学校教員としては日常的なもので、原告が特別に過重な業務に従事していたわけではない。本件職場においては、児童のグループ分けにあたって、介助による教員の負担ができるだけ均等になるよう配慮していた。また、病棟代表は原告の他に2名いた。その担当業務は、学校と病院との連絡窓口という事務的なもので、頸肩腕症候群を発症させるような作業ではない。

5 原告の症状の推移について

原告の発症経過からしても、業務を原因とする頸肩腕症候群とは考えられない。原告の昭和55年度から昭和57年度までの定期健康診断の結果は別紙⑦のとおり、昭和54年から昭和58年3月までの既往歴は別紙⑧のとおりである。原告は、昭和55年10月以降昭和57年秋まで、単に肩こりと腰痛を自覚症状として訴えていただけであり、昭和57年、58年には肩こりの訴えは消失し、症状は増悪していない。また、昭和59年2月時点においても自覚症状のみであって他覚的症状はなく、業務によって症状が悪化したと認める根拠はない。

6 原告の個人的要因について

原告はなで肩という素因を有していた。また、原告は、昭和51年に長男を、昭和54年に次男をそれぞれ出産して、家事、育児を行っており、その負担が頸肩腕症候群の発症の原因となった疑いも否定できず、公務が相対的に有力な原因になったとはいえない。

7 治療経過について

頸肩腕症候群が業務に起因している場合には、3か月程度の療養が行われれば、症状は消退するとされているから、3か月を超えてなお療養を要するときは、その症状は専ら個人的要因に基づくものであり、業務とは関係ないというべきである。前記「『上肢業務に基づく疾病の取扱いについて』の実施について(通知)」も、「個々の症例に応じて適切な療養を行うことによっておおむね3か月程度で症状が軽快すると考えられ、手術が施行された場合でも一般的におおむね6か月の療養が行われれば治癒するものと考えられる。」としている。
原告は、本件疾病の療養のため、昭和59年4月17日から昭和61年3月31日まで、2年間もの病気休暇を含む長期休暇等を要しているから、本件疾病は業務に起因するものではない。

第三 争点に対する判断

一 争点1 (本件疾病の罹患)について

1 原告の症状、治療経過について

証拠(甲1の1・4・5・7・8、20、21、41、乙5ないし7、原告本人)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認められる。

(一) 頸肩腕症候群とは、頸部、肩、上肢、前腕、手指の痛み、重感、こり、しびれ、脱力などの症状を呈する疾病である。

(二) 原告は、昭和48年4月、京都府に教諭として採用され、昭和55年4月から本件職場で勤務し、重症心身障害児の訪問教育を担当していた。
原告は、昭和48年に児童に背後から飛びつかれて腰痛を発症したことがあったが、おおむね昭和55年度までは腰、頸部、肩の異常を訴えることはなかった。

(三) 原告の昭和55年度から昭和57年度までの定期健康診断の結果は別紙⑦の、昭和54年から昭和58年6月までの既往歴は別紙⑧のとおりであり、その間の症状の推移は次のとおりである。
(1) 昭和55年度
原告は、10月ころから、肩こり、背部痛を感じるようになり、同月の定期健康診断で肩こり、腰痛を訴え、頸椎不安定症と診断された。
(2) 昭和56年度
原告は、5月ころから頭痛、肩こりを感じ、同月から7月まで岡本医院に通院した(診断名は腰椎側弯症、肩こり症)。右症状は夏期休業により一時緩和したが、2学期の開始により再発し、同年10月の定期健康診断で、肩こり、腰痛を訴え、医師から様子観察を指示された(医師の所見は「肩こり、腰痛が強くなれば加療のこと」というものであった。)冬休み、春休みに入ると右症状は緩和した。
(3) 昭和57年度
原告は、4月から腰痛、肩こりを感じ、2学期には右症状が増悪した。11月の腰痛等検診で筋・筋膜性腰痛症と診断された。
(4) 昭和58年度
原告は、昭和58年4月初めから腰、肩の痺れを感じていたところ、5月ころ、体重42・1キログラムの児童を教員2名で抱いて車椅子に乗せようとした際、右上腕部に痛みを覚え、6月10日に岡本医院で受診したところ頸肩腕症候群と診断された。その後も背、肩、頸部、後頭部痛が増強し、昭和59年1月13日に京都第一赤十字病院で起立性低血圧症、緊張性頭痛症と診断され、通院加療を受けた。2月ころ、体重22キログラムの児童を抱いてベットに移そうとした際に、右背から肩、頸部にかけて痛みを感じ、以後、背、肩、頸部、後頭部の痛み、しびれがひどくなったため、同月23日上京病院で受診し、姫野医師から頸肩腕症候群(頸肩腕障害)、背痛症と診断された。
右症状の発症時における原告の自覚症状は、背・両肩・右腕・頸部の痺れ・痛み、後頭部痛、腰のだるさであり、児童を抱き続けていることができず、前かがみの姿勢をとるだけでも痛みを感じるというもので、字を書いたり、包丁で物を切ったり、雑巾を絞ったり、髪を洗うために手を頭に挙げる等の日常生活における動作にも支障が生じていた。

(四) 岡本医院での初診時(昭和58年6月10日)における主訴及び他覚的所見は、「頸部から右肩にかけていわゆる肩凝り状症状、右上腕部にかけての疼痛を主訴とし、右側頸部から僧帽筋部の圧痛、右3角筋、右上腕2頭筋長腱部等に著明な圧通あり。」というものであり、レントゲン写真・その他の検査上の所見は、「頸椎レントゲン写真上外傷による骨折あるいは脱臼、厚発性あるいは転移性悪性腫瘍を疑わせる所見、加齢による退行性病変等は認めず、背屈位側面画像でC2ないし5間での軽度の配列の乱れを認めるのみであった。初診時に施行した血液生化学検査、リウマチ反応、血液一般検査等にても異常値を示したものはなかった。」というものであった。

(五) 姫野医師による初診時における所見は、「後頸部、肩胛上部、両側肩胛骨骨間部(背部)の筋緊張、圧痛を認める。握力右29キログラム、左29・5キログラムで右軽度低下を認める。頸椎レントゲン所見は側面像でC4/5/6間に生理的前弯の減少を認めるが、正常範囲であり、胸椎レントゲンも著変を認めない。アレンテスト(-)イートンテスト(-)スパーリングテスト(-)肩押し上げ試験(-)モーレイテスト(-)知覚異常なし。貧血(-)CRP(-)RA(-)ASLO166以下、尿蛋白(-)ウロビリノーゲン正常であり、ガングリオンも認めない。これらの点から、胸郭出口症候群、背椎異常、ロイマ、ガングリオン等が否定される。」というものであった。

(六) 原告は、昭和59年4月から休職し、投薬、マイクロ、ホットパック、首の牽引、マッサージ、湿布、塗り薬、針治療、水泳療法等の治療を受け、半年後には職場復帰訓練を開始し、通院も当初週3回であったが1年後には週2回に、その後週1回となり、昭和61年4月には病弱教育部に復帰した。

2 ところで、被告は、姫野医師の前記診断について、(1)原告には頸肩腕症候群に重要な他覚的所見である筋硬結が認められず、筋緊張のみが存したとされているに過ぎないこと、(2)原告の握力について、左右0・5キログラムの差は有意な差ではなく、握力低下とはいえないこと、(3)CRP、RAがマイナスでもリウマチを完全に否定できるものではないこと、(4)胸郭出口症候群を否定するための鑑別診断に必要なルースの3分間テストを行っておらず、同疾病を否定することはできないことを理由に誤りであると主張し、岩破康博医師(以下「岩破医師」という。)はその意見書(乙21)及び証人尋問において、これに沿う供述をするが、以下に検討するとおり、右供述をそのまま採用することはできない。

(一) 筋硬結について
筋硬結とは触ってみると硬くなっている状態、筋緊張とは触ってみると緊張している状態であり(証人岩破)、両者の差は触打診による硬さの程度の差に過ぎないと考えられる。そして、筋硬結は頸肩腕症候群を鑑別する際に不可欠な症状であるが、(乙25、証人垰田)、筋緊張も筋硬結に至らないながらも頸肩腕症候群を診断すべき他覚的所見の1つとして取り扱われていることは、地方公務員災害補償基金補償課長が発した昭和50年3月31日付けの「『キーパンチャー等の上肢作業に基づく疾病の取り扱いについて』の実施について」(地基補第192号、乙28)において、頸肩腕症候群の他覚的症状として「当該部位の諸筋に病的な硬結もしくは緊張又は圧痛を認め」と記載されていることからも明らかである。
また、姫野医師はその意見書(甲41)で、初診時の所見の筋緊張は、正常な弾力性を持つ筋ではなく、硬く張った筋を触知したことを表したもので、筋硬結という表現を使うことも可能であったとしており、筋硬結ではなく筋緊張との表現が用いられていることをもって姫野医師の前記診断を疑う理由とはならない。

(二) 握力差について
左右の握力差については、握力測定の結果を頸肩腕症候群の鑑別診断に用いる文献は見あたらず、むしろ、客観性が乏しいため筋疲労の指標とはなり得ないとする文献(乙11)も存することからすると、握力に関する姫野医師の所見に頸肩腕症候群の鑑別診断として特段の意義を見いだすことはできないというべきである。

(三) リウマチについて
原告は、昭和57年に林医院で慢性リウマチ性関節炎と診断されている(弁論の全趣旨)。しかし、昭和58年6月の岡本医院での初診時の検査でリウマチ反応は認められなかったことは前判示のとおりであり、また、姫野医師は原告にCRP、RAの両検査を行い、指・手・肘・肩等を直接診断した上で、慢性関節リウマチでないと診断しており(甲41)、リウマチの可能性は否定できる。

(四) 胸郭出口症候群について
証拠(甲29、乙10、40)によれば、頸肩腕症候群と区別すべき素因等による疾病として胸郭出口症候群があること、胸郭出口症候群とは、なで肩、頸助など体形の異常等によって胸郭出口部で腕神経叢と鎖骨下動・静脈が圧迫される病態をいうこと、その鑑別には。モーレイテスト(鎖骨上窩の斜角筋部を圧迫し、局所の圧痛、上肢への放散痛の有無をみる。)、アドソンテスト(頸部を伸展し、患側に回旋し、深呼吸をさせ吸気時の橈骨動脈の減弱あるいは消失をみる。)、ライトテスト(前腕を90度前方挙上して外分廻し90度したときに橈骨動脈の拍動をみる。)、アレンテスト(ライトテストの姿勢で頸部を動かして行う。)、エデンテスト(座位で気をつけの姿勢をとり、両上肢を後下方は引いた姿勢で橈骨動脈の拍動の変化を調べる。)、ルースの3分間挙上試験(ライトテストの姿勢で、両手指を開いたり握ったりの動作を3分間行わせ、症状の再現があるかどうかをみる。)等の試験が行われていることが認められる。この点について、岩破医師は、姫野医師がルースの3分間テストを行っていないから、胸郭出口症候群を否定することはできないとしているが、同疾病を鑑別するための主なテストして、アドソンテスト、ライトレスト、気をつけ姿勢テストの3つを挙げる文献(乙28)や、モーレイテスト、アドソンテスト、ライトテストの3つを挙げる文献(甲29)もあり、結局、ルースの3分間テストが胸郭出口症候群の鑑別診断に必要不可欠であるとは認めがたい。姫野医師は、モーレイテスト、アレンテスト、アドソンテスト(後に実施)を実施し、いずれも陰性の結果を得ているのであるから(甲41)、胸郭出口症候群の可能性は否定できる。

3 また、被告は、原告の症状は(1)自立神経失調症、(2)低血圧症、(3)頸椎不安定、(4)リウマチを原因とする可能性が高いと主張し、岩破医師は、その意見書(乙21)及び証人尋問においてこれに沿う供述をするが、以下に検討するとおり、右供述をそのまま採用することはできない。

(一) 自律神経失調症について
原告は、昭和59年1月13日に頭痛を主訴として京都第一赤十字病院を受診し、起立性低血圧症と診断されている(弁論の全趣旨)。証拠(乙23、証人岩破)によれば、起立性調節障害とは、自律神経失調を基盤にした循環器症状が目立つ症候群であり、立ちくらみ、めまいを起こしやすい症状や、立っている時に気持ちが悪くなる症状、すなわち起立性低血圧を主たる症状とし、また、頭痛をしばしば訴えることもその診断基準となるものと認められているところ、岩破医師は、原告の右症状を自律神経失調症であるとしている。一方、証拠(乙10)によれば、頸肩腕症候群からは、(1)頸椎の運動制限、圧痛、筋痙直などの局所症状、(2)知覚異常、運動麻痺、腱反射異常、神経伸展試験などでみられる神経症状、(3)橈骨動脈拍動異常、血圧の左右差、レイノー症候群などにみられる血管異常、(4)不定愁訴と目される自律神経症状が生じること、主な自律神経症状は後頭部痛項部痛、めまい等であること、これらの症状はいずれも患者の愁訴が中心で他覚的所見が乏しいことが認められる。とすれが、頸肩腕症候群からも、めまい、後頭部痛等の自律神経失調症と同様の症状が生じるのであるから、原告が頭痛を訴えていたことを理由に原告が頸肩腕症候群であることを否定することはできないというべきである。また、原告に生じていた、肩、頸のしびれ、痛み等の症状は、自律神経失調症に通常伴う症状ではないから、自律神経
失調症に起因するものとは考えがたい。

(二) 低血圧症について
原告は、昭和51年度の職員健康診断以降、一貫して最高血圧が110㎜Hg以下であり、100㎜Hg以下のこともあった(弁論の全趣旨)。証拠(乙24)によれば、低血圧とは、収縮気圧が110ないし100㎜Hg以下のものを指し、健康者における患者の頻度は110㎜Hg以下であれば40パーセント程度であること、自覚症状、他覚的
異常所見のない例も多いこと、自覚症状は不定愁訴というべきものが多いことが認められるところ、前判示のとおり、頸肩腕症候群からも低血圧の場合と同様の不定愁訴が生じるのであるから、原告が頭痛やめまい等を訴えていたことを理由に頸肩腕症候群であることを否定することはできない。また、原告に生じていた、肩、頸のしびれ、痛み等の症状は、低血圧に通常伴う症状ではないから、低血圧に起因するものとは考えがたい。

(三) 頸椎不安定について
証拠(乙6)並びに弁論の全趣旨によれば、原告は、昭和55年10月の腰痛検診で頸椎不安定と診断され、また、岡本医院でのレントゲン写真上の所見において第2ないし第5頸椎間に軽度の配列の乱れがあったことが認められる。証拠(甲41、証人垰田、同岩破)によれば、頸椎不安定とは、頸椎の並びが崩れている状態を指すところ、姫野医師は原告の頸椎の生理的前弯減少(頸椎不安定と同じ状態を指すと思われる。)は異常というほどのものではなかったと診断し、垰田和史医師(以下「垰田医師」という。)は頸椎不安定から肩、上腕から指にかけての痛み、しびれの症状が生じることはないとしており、これらの医学的知見を覆す証拠はないから、原告に生じていた症状は、頸椎不安定に起因するものとは考えがたい。

(四) リウマチについて
リウマチの可能性が否定できることは前判示のとおりである。

4 右1認定の事実に、原告の本件症状が被告の主張する疾病によるものであることを否定できること、頸肩腕症候群の呈する症状と原告の本件症状が符合すること及び後記原告の従事してきた業務の内容等を総合考慮すると、原告は、昭和58年5月ころ、本件疾病に罹患したものと認めるのが相当である。

二 争点2(公務起因性)について

1 公務上の疾病の意義

地方公務員災害補償法にいう公務上かかった疾病とは、公務を原因として発症した疾病をいい、そのためには公務と疾病との間に相当因果関係があることを要すると解すべきである。

2 公務上外の認定基準について

(一) 証拠(甲30、31)並びに弁論の全趣旨を総合すれが、次の事実が認められる。
(1) 労働省労働基準局長の通達等による認定基準
労働省は、頸肩腕症候群の業務上外の認定基準を、昭和50年2月5日付け「キーパンチャー等上肢作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準について」(基発第59号)と題する労働基準局長通達において示していたが、平成9年1月の頸肩腕症候群等に関する専門検討会による「頸肩腕症候群等に関する検討結果報告書」を踏まえて、同年2月3日付けで「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」(基発第65号)と題する労働基準局長通達により、右基準を改定した(新認定基準)。この改定は、作業方法の変化等により上肢作業者に発症する疾病も多様化していることから、対象疾病の範囲、対象業務等について全般的に見直しを行い、頸肩腕症候群以外の上肢障害をも含めるものである。
右改定に伴い、地方公務員災害補償基金は、同年4月1日付け「上肢業務に基づく疾病の取扱いについて(通知)」(地基補第103号)及び「『上肢業務に基づく疾病の取扱いについて』の実施について(通知)」(地基補第104号)を発し、地方公務員の災害補償についても新認定基準と同様の認定基準が用いられることになった。
(2) 新認定基準の内容
新認定基準による、頸肩腕症候群を含む上肢障害の業務起因性の認定要件は、次のとおりである。
(Ⅰ) (?)上肢等に負担のかかる作業を主とする業務に相当期間従事した後に発症したものであること、(?)発症前に過重な過重な業務に従事したこと、(?)過重な業務への従事と発症までの経過が医学上妥当なものと認められることのいずれをも満たす場合には、当該上肢障害を業務上の疾病として取り扱う。
右「上肢等に負担のかかる作業」とは、(?)上肢の反復動作の多い作業、(?)上肢を上げた状態で行う作業、(?)頸部、肩の動きが少なく、姿勢が拘束される作業、(?)上肢等の特定の部位に負担のかかる状態で行う作業のいずれかに該当する、上肢等を過度に使用する必要のある作業をいう。「相当期間」とは、原則として6か月程度以上をいう。「過重な業務」とは、上肢等に負担のかかる作業を主とする業務において、医学経験側上、上肢障害の発症の有力な原因と認められる業務量を有するものであって、原則として、(?)当該事業場における同種の労働者と比較して、おおむね10パーセント以上業務量が増加し、その状態が発症直前3か月程度にわたる場合、または、(?)業務量が1か月の平均又は1日の平均では通常の日常の範囲内であっても、1日の業務量が一定せず、通常の1日の業務量のおおむね20パーセント以上増加し、その状態が1か月のうち10日程度認められる状態又は1日の労働時間の3分の1程度にわたって、業務量が通常の業務量のおおむね20パーセント以上増加し、その状態が1か月のうち10日程度認められる状態が発症直前3か月程度継続している場合をいう。そして、「過重な業務」の判断に当たっては、業務量の面から過重な業務とは直ちに判断できない場合であっても、通常業務による負荷を超える一定の負荷が認められ、(?)長時間作業、連続作業(?)他律的かつ過度な作業スペース(?)過大な重量負荷、力の発揮(?)過度の緊張、(?)不適切な作業環境といった要因が顕著に認められる場合には、それらの要因も総合して評価する。
(Ⅱ) 新認定基準の運用に関して労働省労働基準局補償課長は、「上肢作業に基づく疾病の業務上外の認定基準の運用上の留意点について」を発しているが、右通知においては、「上肢等の特定の部位に負担のかかる状態で行う作業」の例として、「保育、看護、介護作業」が挙げられている。
(Ⅲ) また、新認定基準は、上肢障害について、業務から離れ、あるいは業務から離れないまでも適切な作業の指導・改善等を行い就業すれば、症状は軽快するとし、留意点として、適切な療養を行うことによっておおむね3か月程度で症状が軽快すると考えられ、手術が施行された場合でも一般的におおむね6か月程度の療養が行われれば治癒するものと考えられるとしている。なお、前記「頸肩腕症候群に関する検討結果報告書」では、慢性化した頸肩腕症候群は比較的難治になる場合があるとしている。

(二) ところで、頸肩腕症候群の発生機序は多種多様であり、その医学的解明が十分なされているとはいえないから、新認定基準をそのまま形式的に当てはめて公務起因性を判断することは相当ではないので、これを参考するにとどめ、以下原告が従事した重心心身障害児教育業務と疾病との関連性、原告の担当した業務の具体的内容・負担の程度等を具体的に検討し、原告の業務と本件疾病との間の相当因果関係の有無を判断することとする。

3 重症心身障害児教育業務と疾病について

証拠(甲6、10、26、証人玉村)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 重症心身障害児とは、一般には、心身障害の程度が極めて重かったり、重い障害を併せ持ち、医療や看護を特に必要としている子供のことをいう。
昭和54年4月1日から、学校教育法の養護学校の義務制に関する部分が施行され、従前、修学猶予・免除の措置がとられることが多かった重症心身障害児に対する学校教育が始まった。重症心身障害児は、多くは寝たきりの状態で、筋緊張が強く、変形や拘縮を伴っていることもあるため、食事・排泄・更衣・入浴・洗面などの日常生活全般にわたって介助が必要となる。また、重い精神発達障害があり、その多くがてんかん、呼吸器系の弱さ・嚥下困難、視覚障害・聴覚障害・内臓疾患など他の障害を合併していて、刺激の多さによって熱発や発作を起こすことから、これらに留意した教育を組み立てていかなければならない。重症心身障害児教育においては、教員は子供に合わせた姿勢をとらざるを得ない。また、顔を子供の顔に近づけて、腕で子供を支持して中空で静止させたり、徐々に体位変換を行うなど、子供の反応を見ながらアプローチする必要がある。特に授業では、教員は、全体の進行と合わせながら、1人1人へのアプローチを、教材・教具を運用しながら行わなければならず、複雑な姿勢と動きを強いられる。

(二) 心身障害児教育に従事する養護学校の教員には、頸肩腕症候群や腰痛が多発している。これを受けて、京都府教育委員会は、昭和52年度から腰痛にかかるアンケートを、昭和53年度から「府立盲聾・養護学校腰痛検診」をそれぞれ実施している。そして、昭和60年度からは、「府立盲・聾・養護学校教職員頸肩腕・腰痛検診」に順次切り替えて実施している。

4 本件職場の概要、原告が担当した業務内容等について

(一) 本件職場
証拠(甲4、7、13、14の1・2、15、乙13ないし16、20、証人西根、原告本人)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。
(1) 本件職場は、昭和54年の養護学校義務化に伴い、同年4月に、国立療養所南京都病院の重症心身障害児施設しらうめ病棟の入院児の訪問教育をする府立桃山養護学校しらうめ訪問教育部として開設され、その後、昭和57年4月に府立南山城養護学校に移管されて府立南山城養護学校しらうめ訪問教育部となり、昭和58年4月に府立南山城養護学校城陽分校となった。
その教育内容は、集団学習を中心として、教科指導、生活指導、養護訓練であり、昭和58年4月に分校化されたことに伴って、授業時間を増やすために授業内容が変更された。
(2) 本件職場における各建物の配置は、別紙⑨の「国立療養所南京都病院配置図」のとおりである。
昭和58年当時は、重心病棟から約150メートル離れた旧結核病棟(昭和14年築、木造)が教員控室(職員室)として使用されていた。集団授業の教室としては、昭和55年9月に病棟の横にプレハブ教室1室と教材庫が設置され、昭和58年4月30日に病棟から約120メートル離れたやや高台にプレハブ教室4室と教材室、便所が増設された。
(3) 昭和55年度から昭和58年度までの、本件職場の教員数、在籍児童数は別紙②のとおりであり、昭和58年度の児童数は67ないし72名、教員数23名であった。本件職場では、京都府下の他の養護学校と比べて、発達障害の高い児童の割合が多かった。

(二) 原告が担当した業務の内容
証拠(甲13、14の1・2、証人芦田、同西根、同赤木、原告本人)並びに弁論の全趣旨によれば、本件職場における昭和55年度から昭和58年度までの重症心身障害児教育の日課、週学習時間、授業場所は別紙②のとおりであったことが認められる。
(1) 朝の申し継ぎ・個別指導〔8時30分から9時10分〕
病棟で行われる朝の申し継ぎに、各病棟ごとに教員1名が交替で参加していた。その間、他の教員は、担当児童にベットでの個別指導を行い、児童にあいさつ、呼名、握手、話しかけ等の働きかけをする。
(2) 授業の打ち合わせ〔9時10分から9時20分〕
職員室での申し継ぎの報告を聞き、授業の打ち合わせをする。
(3) 授業準備〔9時20分から9時30分〕
職員室または教材庫から教室まで、授業に必要な教材(マット、パネル、トランポリン、玄米等)を運び、ハンモックを取り付ける等の準備を行う。右教材のうち、常時使用するもの、重いものは教室横の教材庫に収納していたが、職員室から台車で運搬することもあった。台車での運搬は、主に男性教員が担当していた。
(4) 午前の集団授業〔9時30分から11時〕
午前の集団授業は、月曜日から金曜日まで毎日行われた。約70名の児童を15のグループ(1グループ4ないし6人)に分け、グループごとに1つの教室に入り、4人の教諭が1グループの授業を担当していた。集団授業の内容は次のとおりである。
(Ⅰ) 児童のおむつ替え、着替え、移動〔9時30分から9時40分〕
病棟で児童のおむつ替え・着替えを行う。着替えは、腰を曲げて、ベット(高さ70ないし75センチメートル)又は床に寝かせた児童の体を持ち上げて行い、おむつ替えは、ベットの横に立ち、片手で児童の尻を浮かせて腰まで持ち上げて行った。児童の移動に際しては、教員が腰を曲げながら児童の体の下に手を入れ、腕で児童を支えながらベットから抱きあげ、中腰の姿勢から、バギー(座位のもの)やストレッチャー(臥位のもの)に降ろし移動させる。このとき、児童が反り返ったりすることもあり、精神的、肉体的緊張を強いられる。バギー等への移動の際には、児童1名を複数の教員が担当することもあった。その後、児童を乗せたバギー等と押して教室へ移動する。病棟・教室間はおよそ120メートル離れており、教室までは坂道で未舗装の砂利道もあり、段差のある場所では前輪を浮かせる必要があった。バギーの操作は原則として児童1名を教員1名が担当し、ストレッチャーは複数の教員が操作していた。
(Ⅱ) 教科指導〔9時40分から10時50分〕
始めに児童を抱きかかえて水分補給を行って後、「からだ」、「ふれる・えがく・つくる」、「うた・リズム」、「みる・きく・はなす」の授業を行う。
(?) 「からだ」の授業は、寝返り・4つ這い・座位・歩行などの運動能力を高める指導である。シーツブランコの授業の場合、児童をバギーから抱きあげてシーツに寝かせ、教員2人ないし4人でシーツの隅をつかんで、曲に合わせて左右に振って揺らす。大球乗りの授業の場合、児童をバギーから抱きあげて硬質ビニールの大球にうつ伏せにのせ、両腕で児童の体を支えながら、球を上下左右に揺らす。トランポリンの授業の場合、児童をバギーから抱きあげ、両腕で児童を抱きかかえ、児童の様子を見ながらトランポリンを揺する。
(?) 「ふれる・えがく・つくる」の授業は、紙・粘土・小麦粉などの素材を使って手指の感覚を豊かにし、その操作性を高める指導である。児童をバギーから抱き下ろし、座位、うつ伏せ又は側臥位の姿勢を取るのを教員が保持し、素材に触れさせる。児童が安定した形でいろいろな素材に触れることができるように、1人の教員が児童の体を支え、他の1人が前から関わるようにすることが多く、教員1人で関わるときには片腕で児童を支えながら自分の体を前かがみにして、もう一方の手で児童が素材に関われるよう働きかけた。
(?) 「うた・リズム」の授業は、歌声や楽器演奏を聞いてリズム感や音感を高め、楽器で音を出して楽しめるようにする指導である。楽器遊びの授業の場合、片腕で児童の体を支えながら、もう片手で楽器を保持し、楽器に触れさせる。
(?) 「みる・きく・はなす」の授業は、物の動きや光を見たり、音に耳を傾けたりして感情を表情や発声で表現する力を培う指導である。みる活動の授業の場合、児童をバギーから抱き下ろし、教員の足の上に乗せて片腕で児童を支えつつ、他方の腕を児童の前方にのばして教材を提示する。授業の始めと終わりには、児童を抱きかかえてあいさつを行い、児童を授業中におむつを汚した場合は、その着替えを授業後に行う。
(Ⅲ) 児童の移動〔10時50分から11時〕
児童を再びバギー等に乗せて病棟へ移動する。児童を抱きあげて、床からバギー等に移動させる作業は、前記作業と同様である。帰路は坂を下ることになるため、速度を調節しながら移動する。
(5) 食事指導〔11時から12時〕
児童に合わせた姿勢で行う。児童をベットに寝かせたまま食事を与える場合は、教員はベットに腰掛けて、左腕で児童を抱き起こした立て抱きにし、手首を曲げて児童の頭と首を支えながら、右手でスプーンを保持し、食物を口に入れ、口からこぼれないように補助する。食事指導は平均30分程度かけて行ったが、児童により個別差があった。
(6) 授業反省会、午後の授業の打ち合わせ〔12時30分から13時〕
(7) 午後の授業準備〔13時から13時15分〕
教材庫から教室まで、授業に必要な教材を運ぶ。作業は午前と同様である。
(8) 午後の集団授業〔13時15分から15時15分〕
午後の集団授業は、月曜日、火曜日、金曜日に行われ、水曜日の当該時間には各種会議、木曜日は養護訓練(体の体形を改善したり、不用な緊張を和らげたりすることを主なねらいとした指導)が、それぞれ行われていた。集団授業の内容は次のとおりである。
(Ⅰ) 児童のおむつ替え・着替え、移動〔13時15分から13時20分〕
病棟で児童のおむつ替え・着替えを行い、バギーに乗せて教室に移動する。作業は午前と同様である。
(Ⅱ) 教科指導〔13時20分から15時05分〕
授業の始めにおやつ介助を行う以外は、作業は午前と同様である。
(Ⅲ) 児童の移動〔15時05分から15時15分〕
児童を再びバギーに乗せて病棟へ移動する。作業は午前と同様である。
(9) 授業の後かたづけ〔15時15分から15時30分〕
(10) 授業反省会〔15時30分から15時40分〕
(11) 各種会議〔15時45分から16時30分まで〕
教育内容の検討(方針の検討、教材作り)、教材の研究会、合同行事のための打ち合わせ、父母や地域との連携に関する会議等、各種会議に参加する。
右認定の事実によれば、原告は、1日を通して、上肢、頸肩腕部等にかなりの負荷のかかる、(1)重症心身障害児を抱きあげ、抱きおろす作業、(2)病棟・教室間の坂道を、児童を乗せたバギー等を押して移動する作業、(3)片手で児童を支えながら、体を前かがみにして、もう方手で子供に関わる作業、(4)前かがみや中腰になったり、片腕で児童の体を支える作業を多く行っていたことが認められる。

(三) 原告の勤務状況
証拠(甲18、乙33、証人西根、原告本人)並びに弁論の全趣旨によれば、昭和55年度から昭和58年度までの、本件職場の担当授業の時間割は別紙③のとおりであること、右時間割中のグループ名のAからDは児童の発達の程度を表しており、Dが最も障害の重いグル―プであること及び原告の右期間中の担当業務は次のとおりであることが認められる。
(1) 昭和55年度
3D(担任)、3C、2Dグループの児童(平均体重15・7キログラム)を担当した。校務分掌では、3病棟担当で、研究部、「うた・リズム」を担当した。
(2) 昭和56年度
3D(担任)、3C2、3C1、3B、3Aグループの児童(平均体重15・4キログラム)を担当した。校務分掌では、3病棟担当で、研究部長、「かく・つくる」を担当した。
(3) 昭和57年度
3C3(担任)、3C1、2D、2B2グループの児童(平均体重14・6キログラム)を担当した。校務分掌では、3病棟担当で、研究部長、「ふれる・えがく・つくる」担当、教育実習生担当、病弱養護学校準備委員、近病連大会実行委員を務めた。
(4) 昭和58年度
3C3(担当)、2A2、1Dグループの児童(平均体重20・7キログラム、最高42・1キログラム)を担当した。原告が主に担当していた3C3グループ4名(H・A、A・T、T・S、T・K)2A2グループのT・F、1Dグループの2名(N・K、N・S)の状態は別紙①のとおりである。校務分掌では、3病棟担当・代表で、「うた・リズム」担当、教育実習生担当、近病連大会実行委員、運動会実行委員、教務部、行事打ち合わせ担当、重心運営委員、実践報告委員を務めた。
同年度には、授業時間が長くなり、授業回数は従来の午前1回・午後2回から午前1回・午後1回に変更され、児童数より教員数が少ない状態で授業をする「マイナス体制」も行われるようになった。また、食事指導も週5日に増えた。さらに、プレハブ教室4室が増設されたことに伴い、教室までの坂道を児童をバギー等に乗せて移動したり、教材等を運搬する作業が増えた。

5 本件職場の教員配置状況

証拠(乙31、32)並びに弁論の全趣旨によれば、昭和58年度の京都府立養護学校及び全国の公立養護学校の児童数、教員数は別紙④のとおりであり、本件職場では教員1名当たり2・91から3・13名の児童を担当しており、全国(3・01名)及び京都府の他の養護学校(2・38から3・13名の間に分布)と対比してその負担は大きく、京都府の養護学校の中では最も高かったことが認められる。

6 本件職場における教員の発病の状況

証拠(乙8)並びに弁論の全趣旨によれば、本件職場における昭和55年から昭和60年までの間の教員の発病状況は別紙⑤のとおりであり、原告の他に、昭和58年度に腰痛により2名、昭和59年度に腰痛により2名、昭和60年度に頸肩腕症候群により2名、腰痛により1名が、それぞれ病休(特別休暇)を取得していることが認められる。

7 業務起因性について医師の所見

(一) 姫野医師の所見
姫野医師による原告の所診時における所見は、「当該患者の労働態様は障害児童の介助で相当な体力を必要とし、しかも突然反り返ったりするので危険防止のために、かなり無理をしなければならないことも起る。その労働態様と、発症の経過を見ると、頸、肩、背、上肢の災害的損傷と労作そのものによる疲労の蓄積とが相まって発症したものである。その後休業し、加療することにより症状軽減し、現在復帰訓練も順調に進んでいる。このようなことから本疾病は業務起因性を有すると判断する。」というものである。また、同医師は、実際に本件職場に視察に行き、不自然な体勢や動作を余儀なくされている様を検分した上で、教員は、(1)頸部、肩、上肢に大きな負担がかかること、(2)休憩がほとんどとれない状況にあること、(3)季節ごと、年ごとに、仕事の波と症状の経緯が一致すること、(4)他にこのような症状を引き起こす原因となるものが見あたらないことから、本件疾病は業務に起因するものであると診断している(甲1の4、41)。

(二) 垰田医師の意見
垰田医師は、前記姫野医師の診断書及び他の医療機関の診断書を検討した結果、原告に対する鑑別診断は十分に行われており、原告の労働負担、症状経過と労働負担との関係、本件職場における安全衛生管理の欠如から、原告の本件疾病は業務に起因するものであると判断している(甲23、証人垰田)。

8 判断

以上の事実を前提にして、原告の頸肩腕症候群の公務起因性の有無について検討する。

(一) 重症心身障害児教育業務の作業内容について
原告の従事していた重症心身障害児教育の業務は、集団授業、食事・おやつの介助、着替え、おむつ替え、授業の準備・片づけ、会議への参加など多様な労作を含むものであり、長時間にわたって同一の姿勢を維持したり、同一の作業を反復したりする性質のものではないものの、児童を抱きあげたり、抱きおろしたりする等の腕を使う労作や、児童を支える等の無理な姿勢で腕を中空に保持する労作が多く、上肢、肩、頸部に負担にかかる状態で行う作業であるというべきである。
また、養護学校教員の中には頸肩腕症候群や腰痛を発症している者が多いことをも考慮すると、一般的に重症心身障害児教育業務は、上肢等に過度な負担のかかる頸肩腕症候群発症の危険性のある作業を主とするものであると認めるのが相当である。
この点について、岩破医師は、上肢等に負担のかかる作業に従事したとしても、頸肩腕症候群発症の危険性が生じるのは1日6時間ないし7時間、1週間で連続6日ないし7日間、右業務に従事するような場合に限られる旨供述するが、その根拠は明らかでないから、右供述をそのまま採用することはできない。

(二) 原告の業務の加重性について
(1) 本件職場では発達障害の程度が高い児童の割合が高かったこと、教員1名当たりの担当児童数が全国及び京都府内の他の養護学校と比して多く、本件職場における業務量及び業務による負荷は他の養護学校に比べて重かったこと、昭和60年度に他の教員2名が頸肩腕症候群により病休を取得していることを考慮すると、本件職場は頸肩腕症候群の発症する危険性の高い職場であったということができる。
(2) 原告が昭和58年度に担当した児童は、特に重い障害を持つ児童であり、児童らの平均体重20・7キログラム、最高42・1キログラムであったことを考えると、これが原告の上肢に相当の負担を及ぼしたことは明らかである。これらの事実を総合すると、原告が昭和58年度に従事した業務は、他の養護学校の教員の業務と比較しても、また、本件職場における他の教員と比較しても、負荷の重い業務だったと認めるのが相当である。これに対し、被告は、発症直前の原告の休暇の取得状況、時間外勤務の状況を考慮すると、原告の業務には過重性が認められない旨主張するところ、証拠(乙4)並びに弁論の全趣旨によれば、原告の昭和57年度及び昭和58年度の休暇取得状況は別紙⑥のとおりであり、昭和58年度の原告が児童を指導した日数が191・5日であること、また、原告は、昭和55年度から昭和58年度までの間、職務命令による時間外勤務をしたことはないことが認められる。しかし、昭和58年度における原告の休暇取得日数は前年度と比して多いものの、多日数に及ぶとまではいえないし、また、時間外勤務をしなかったことをもって、業務による負荷の過重性を否定することはできず、被告の主張は失当である。

(三) 業務と発症までの経過の対応関係について
原告は、本件職場に配置された約半年後から肩こり等を訴え始め、夏休み等の休業により一時症状は軽減したものの、業務に伴って症状も増悪し、業務が特に厳しくなった昭和58年度に頸肩腕症候群を発症し、その後の休職により改善しているのであって、右症状と原告の業務による負荷はほぼ対応しており、原告の業務と発症までの経過は医学上妥当なものと認められる。

(四) 他の要因について
被告は、原告にはなで肩という素因があり、家事、育児の負担も大きかったと主張する。弁論の全趣旨によれば、原告がなで肩であり、また、発症当時4歳と7歳の子がいて家事育児に従事していたことが認められるところ、猫背、なで肩体型と頸肩腕症候群との間に相関関係を認める文献もみられる(甲41、乙25、29)が、本件全証拠によるも、原告のなで肩の程度は明らかでなく、また、なで肩と家事育児が原告の頸肩腕症候群の発症に具体的影響を及ぼしたことを認めることはできないから、右主張は失当である。

(五) 治療期間について
この点、被告は、原告の治療期間が長期化したことを業務起因性を否定すべき事由として指摘する。確かに、頸肩腕症候群の治療に必要な期間は3か月ないし6か月であるとする見解(乙2、証人岩破)も存在し、新認定基準も、前判示のとおり、一般的におおむね6か月程度の療養が行われれば治癒するものと考えられるとしている。しかし、右3か月ないし6か月の期間は必ずしも十分な根拠があるとは認められないうえ、頸肩腕症候群の症状が進行して慢性化したから治療する場合には相当期間にわたることもあるとの見解もあり(証人垰田)、また、前記「頸肩腕症候群等に関する検討結果報告書」でも、慢性化した頸肩腕症候群は比較的難治になる場合があることが指摘されているところであり、治療期間を一律に設定することは相当でない。そして、前判示のとおり、原告は昭和55年度から肩の痛みを感じ、昭和58年6月には「頸腕症候群」と診断され、休職を開始した昭和59年4月には症状は進行していたと認められるから、休職後、治療に2年間を要したからといって原告の頸肩腕症候群が業務に起因することを否定する理由にはならない。

(六) 結論
以上のような、原告の従事した重症心身障害児教育業務の内容、原告の担当した業務の過重性、原告の症状の推移と姫野医師らの所見等を総合すると、原告の従事していた重症心身障害児教育業務と本件疾病の罹患との間に相当因果関係を認めるのが相当である。

三 結論

以上の次第であるから、被告の本件疾病を公務外の災害であるとした本件処分は違法であって、その取消しを求める原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結の日 平成11年3月26日)
京都地方裁判所第3民事部

裁判長裁判官  大谷正治
裁判官  山本和人
裁判官  平井三貴子

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